オープンソースイニシアチブ 設立の経緯

※「catch.jp-wiki」から移動したページです。

オープンソースの元締めである「OSI」(Open Source Initiative)に、設立に至る歴史が簡潔にまとめてあったので、日本語訳を作ってみました。意外と、こういう資料がないので、役に立たつのではないかと思います。


History of the OSI Tue, 2006-09-19 03:12 ― Michael Tiemann on Open Source Initiative

日本語訳作成:catch and contributors.

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本日本語訳の利用条件も、これに準じる。

OSIの歴史

オープンソース イニシアチブ(OSI:Open Source Initiative)の先史というのは、Unix、インターネットのフリーソフトウェア、およびハッカーカルチャー(日本語訳)の歴史そのものといえます。 OSIは、この文化の歴史の変曲点で、教育、支援、世話役の組織として設立されました。

OSIの設立に通じる一連の出来事は、1997年にエリック・レイモンドが論文「伽藍とバザール」(日本語訳)を公開したことで始まりました。この論文においてレイモンドは、ハッカーコミュニティの人々の習慣を理解して、説明する新しい方法を開拓しました。 彼の分析 (ピア・レビューの分散化というアイデアを中心にした)は、ハッカーカルチャーの内部と(意外なことに)外部の両方に、即座に強く訴えかけました。

1997年9月のオライリー Perlコンファレンスにおいて、レイモンドが行ったプレゼンテーションは、人気のあったウェブブラウザのソースコードをフリーソフトウェアとして公開するという、1998年1月22日のNetscapeの発表の引き金になりました。今や長い年月の中で、多くのソースコードが同じように公開されてきた後では、それがどれほど先例のない行動であったか、思い出すことは簡単ではありません。当時、それはハッカー社会とビジネス社会の両方に衝撃を与えました。それは、どんなものでも変えることができるという、長年信じられてきた変化についてのルールを広めたのです。

オープンソースという呼び名

オープンソースという呼び名は、1998年2月3日にカリフォルニアのパロ・アルトの戦略会議で考案されました。そこにいたのは、トッド・アンダーソン、クリス・パターソン(Foresight Institute)、ジョン・"maddog"・ホールとラリー・オーガスティン(両者ともLinux International)、サム・オックマン(Silicon Valley Linux User's Group)、マイケル・ティマン、エリック・レイモンドでした。

レイモンドは、すでにNetscape社がブラウザーのソースコードをリリースする計画を手助けしていました。この戦略会議は、Netscape社のアナウンスが作り出した貴重な状況から生み出されました。そこには、ハッカーコミュニティが伝えなければならない、オープンな開発の優位性という共有社会の知恵がありました。

出席者たちは、道徳的な態度は放りだし、これまでフリーソフトウェアと協調してきた過去と対決的な姿勢を取り、Netscape社と同じようにビジネスの基礎とする実利というアイデアをきちんと売り込むことを決定しました。彼らは戦術と新しい呼び名を協議しました。オープンソースは、クリス・パターソンが提案し、彼らが考えた中で一番良いものでした。

次の週以降、レイモンドたちは、この言葉を広めるために動きました。リーナス・トーバルズはとても重要な許可をくれました。フィル・ヒューズは、Linuxジャーナルの解説記事を引き受けました。リチャード・ストールマンは、用語の採用を口にしましたが、あとで気を変えました。

5日後の1998年2月8日、レイモンドは、新しい用語を使い始めようと、コミュニティに向けて最初のパプリックコールを発表しました。OSIの構成はその後、しばらく続きました。パロ・アルトのミーティングの出席者のうち2人は、後にOSIのpresidentを務めることになります。そして、他の出席者は組織の主要な初期の支持者になりました。

1ヶ月後の4月8日、ハッカー文化の主な部族の長が、Netscapeのリリースと「オープンソース」という新しいラベルが生み出した反響に応えるため、Tim O'Reilly's Free Software Summitに集まりました。このミーティングには、Linux、sendmail、Perl、Python、Apache、などの主要なソフトウェアと、IETFとInternet Softwareコンソーシアムの代表者も参加しました。

そして、このイベントの参加者たちは、「オープンソース」という用語を使ってプロモーションすることと、レイモンドが開発した、市場と仲良くするという実用的で新しいレトリックの導入を採択しました。

OSIの設立とオープンソースの定義

OSIは、エリック・レイモンドとブルース・ペレンスによって1998年2月下旬に設立され、レイモンドは初期のBoard of Directorsのpresidentを務めました。なお、このBoard of Directorsにブライアン・ベーレンドルフ(Brian Behlendorf)、イアン・マードック(Ian Murdock)、ラス・ネルソン(Russ Nelson)、チップ・ザルツェンベルク(Chip Salzenberg)が参加しました。レイモンドは2005年までpresidentを務め、その後、投票権のないオブザーバとなりました。ペレンスは、当初はVice-Presidentでしたが、1999年には方針の違いによってこの組織とは距離を置いたのです。

OSIは、フリーソフトウエアサミットにおいて合意されたのと同じミッションを実行する、一般教育と支援の組織として発想されました。設立会議で、発起人は、この組織のミッションと、「オープンソース」という名称の説明と保護に特に注力することに合意しました。このために採用した主な手段が、オープンソースの定義(Open Source Definition)でした。

オープンソースの定義は、Debian フリーソフトウェアガイドライン(DFSG)から生まれました。Bruce Perensが起草しました。そして、Debian GNU/Linuxディストリビューションの開発者による、電子メール会議を通じ1997年6月のほとんどの期間を費やして集められた、示唆や提案によって洗練されました。そして、投票によって、この定義をDebianの公約されたポリシーとして承認しました。1998年のOSIの設立の際に、若干の修正と、Debianに特有の参照部分が削除されました。

2004年、OSIは、クリック-ラップ式ライセンスに関連して、オープンソースの定義に10番目の条項を追加しました。それ以来、オープンソースの定義には、他の条項の細かな説明のほかには大きな変更はありません。

団体の設立

original Boardの目標は、オープンソースコミュニティを代表して持続可能な機関を作ることと、Open Source Definitionの管理人としての責務を果たすことでした。そのために、内規を定め、国税法501条(c)3で定められた非営利団体としての承認を申請しました(2003年に達成)。

original Boardの最も特筆すべき成功は、OSDをオープンソースライセンスにおける絶対的な基準として、そしてOSIをハッカーコミュニティとビジネス世界や政府の両方から信頼される標準化団体として、首尾よく位置付けたことです。この目論見は1998年末にはほぼ達成され、OSIはそれ以来、オープンソースという蒼穹に備え付けのものとなりました。

OSIは、主要なオープンソース支持団体2つのうち1つとなったにもかかわらず、意図的に控えめな態度をとっています。やってきたことの多くは、表立った社会運動ではなく、静かな、秘められた信念によって達成されました。記者に基礎知識を、政治家に政策を、エグゼクティブに事例を提供しています。OSIは健全さとプラグマティズムについて評価を維持すべく努力しており、そのおかげでコミュニティの利益への脅しに対し、目に見える危機となる前に戦えます。

基盤を広げる着実な活動により、OSIでは2005年にヨーロッパや南米、日本、インドからDirectorが就任し、真に国際的な組織となりました。

OSIの初代Presidentは、改革運動の歴史を学び、オープンソースコミュニティには創立メンバーのカリスマや才能に依存しない指揮機関が必要だと非常に案じていました。そのため、2007年時点で機関としてのOSIの歴史における最も重要な事実は、PresidentとVice-Presidentの職務が3回入れ替わり、Board Of Directorsが新メンバーの第4の候補を就任させようとしていることかもしれません。